誰かからの評価を期待するのはやめよう

自分の意識は多少コントロールできても、

他者の意識はコントロールできない。

 

だから、役に立とうとか、誰かのためとか、認められたいとか、ほめられたいとか、

そういうの全部、高望み。

思えば思うほど、結局叶わなくて落ち込むだけ。

自分で自分を認めるしかない。

できないことや足りないことだらけでも、いいんだ。

がんばれるときにがんばればいいし、何もできないときはしなくていい。

他の人にどう思われるかは、心配したって改善しない。

まずは自分の心の声を時々聞いてみよう。

怒らないと決めてみたら

飲み会の席で友人Bは友人Aに聞いた。

「君はなぜいつも怒らないのか。」

 

ああそうか、仲間から一目置かれている友人Aの飄々としたさまは、「いつも怒らない」と表現できるのか、と私は友人Bの観察力に驚きを覚えた。

 

友人Aはこう答えた。

「怒らないと決めているからだよ。」

 

なんということだろう!

…と思うのは今の自分だからかもしれない。

当時は「え?…え?何この崇高な感じの展開。まあでもあの友人Aがいうことだからそういう考え方もあるんだろうなあ…自分とは違うかも」程度だったような気がする。

 

あのセリフに引っ掛かりを覚えつつ、自分なりに「幸せになる方法」を模索してきた。

そしてたどり着いた答えは、「怒らない」だった。

詳しくいうと、「怒りを感じたら、怒りの炎はいったん保留し、まず自分が何に怒っているのか、つまり何を期待していたのか、その期待は立場や状況が変わっても同じ意味をものなのか、を考える」ことだった。

つまり結果的には怒りそのものがなくなるわけではないかもしれないけれど。

これが、やってみると非常に効果的だった。

最初は慣れないかもしれないが、段々と、自分が勝手に世界に対して抱いている期待が何なのか、客観的に見ることができるようになり、心穏やかに過ごせる可能性がぐんと高まる。

自分も他人も世界も、大丈夫だよって受け入れてみたら意外と楽になる。

 

でも、「怒らないと決める」なんて、とうの昔に友人Aが言ってたしやってたじゃないか。

やっぱりかなわないな。怒らない歴の違いかな。

 

前回と今回のまとめ

立場が変わっても変わらない、人生で目標になるもの:心穏やかに生きること。(なにもしないという意味ではない。なにもしないと心が落ち着かない人は、なにかすべき。)

その目標に到達する手段:怒らないと決めること。人生を愛すること。

 

生きていく答えは人生を愛すること

人生の目標とは何か。
目標は、人それぞれでいいし、なくてもいい。
生きていく上で達成しなければならないことは、ない。
幸せとは欲望であり、得られなければ不幸だと感じるし、手に入れば次が欲しくなり、どこかで満足してもいつか失う。
この世には、永遠に変わらないものは存在しない。
どんな人もどんな仕事もどんな作品も、他のものと比べなくてもいい。
原因があって次の結果へつながっていく。移ろっていく。ただそれだけ。

何かをするには、目標が必要だ。
よくいわれる例えだが、ただ石を積んでも何にもならないが、橋を作るという目標があれば、何をすべきか考えたり見直したりできる。
そしてそういう、これぞという目標があればそこに向かって努力すればよいが、
その目標が達成されるとどうなるのか、究極的には、何の意味もない。
何の意味もないなら、今命のある自分は、生きて何をすればよいのか。
何をしても意味がないではないか。
結論をいえば、生きている自分がすべきことは、人生を愛すること。
愛するとは、見返りを求めないもの。
人生から幸せや満足をもらおうとするのではなく、
誰かや自分をただ愛するように、
人生を愛すること。
誰かに何かをしてもらおうとしても、他人を操ることはできないのと同じように、
人生に何かをもらうのではなく、自分の心の穏やかさのために、人生を愛するのだ。
愛した結果、いつ何をすべきかは、千差万別。
正しく見て聞いて感じて考えて、他人の声ではなく自分の心の声を聞け。

でもこれは、ゲームでいうとラスボスの攻略法だけを書いているようなもので、
もう少し詳しい説明や前提が必要だ。
いい順番で書けるかわからないが、
とりあえず思い付くままに書こうと思う。
あとで編集するかもしれないが、ご了承いただきたい。